■20世紀録音再生技術の進化の恩恵を受けた古楽復興の牽引者
第2次大戦後の音楽の潮流の一つとして、
バロックからルネサンスへと時代を遡った音楽の、
それもそうした音楽が作曲された当時のオリジナル楽器やその複製と
当時の演奏様式を使った原典復古主義の演奏が本格的に展開されるようになりました。
こうした「古楽復興」の動きを強く後押ししたのが、テープ録音の開始、
LPレコードの開発、そしてステレオ時代の到来という20世紀の録音再生技術の急速な進化でした。
原音を忠実に記録できることで、オリジナル楽器の繊細微妙な音色の魅力を
家庭のシステムで手軽に再現できるようになり、
しかも実演では音量が小さく大きな会場での演奏に向かない楽器であっても、
マイクで収録することでその音量の小ささが補われるようになったからです。
こうしたレコードを介した「古楽復興」の動きは、
ドイツ・グラモフォンのアルヒーフ・プロダクションやテレフンケンの
ダス・アルテ・ヴェルクといった専門レーベルの創設によって一気に加速していくことになります。
この20世紀後半の「古楽復興」の原動力となったのが、
オランダの鍵盤楽器奏者・指揮者グスタフ・レオンハルト(1928-2012)でした。
彼が同世代のニコラウス・アーノンクール(1929-2016)、フランス・ブリュッヘン(1934-2014)、
アンナー・ビルスマ(1934-2019)らと開拓し、打ち立てた古楽の演奏哲学や研究内容、
レパートリーは、コンサート活動・教育活動と並び200枚に上るアルバム録音を通じて
世界規模に広がって、音楽受容を実に豊かなものにし、現代に脈々と受け継がれています。
■「レオンハルトはバッハだ」と称賛された名手
15歳の時に父親が購入したチェンバロの音色に魅了されたレオンハルトは、
バーゼル・スコラ・カントルムでチェンバロとオルガンを学び、
1950年に最高栄誉賞付ディプロマを得て卒業、同年ウィーン・デビューを飾っています。
1952年には若くしてウィーン音楽アカデミーで教鞭を執るようになり
この時期に早くもレコード録音を開始し、ソロではバッハのゴルトベルク変奏曲、
「フーガの技法」の録音をヴァンガード/バッハ・ギルド・レーベルに残しています。
1955年からはアムステルダム・スウェーリンク音楽院でも教え始め、
やがてここを拠点に広範な演奏活動を開始。
1958年にはテレフンケン、1962年にはドイツ・ハルモニア・ムンディに録音を始め、
両レーベルに膨大なディスコグラフィを築き上げることになります。
音楽史について実に幅広く深い知見を有したレオンハルトゆえに、
レコード録音も百科事典的な全曲録音ではなく、
選び抜かれた作品が筋の通ったカップリングで1枚に盛り込むアルバム制作が基本でした。
その中でバッハのチェンバロ作品に関してだけは、約20年の歳月をかけてゆっくりと、
複数のレーベルに主要作品を網羅するように継続的に録音しており、
彼ならではの特別な、集中的な取り組みがなされていることが見て取れます。
盟友のブリュッヘンは「レオンハルトはバッハだ」という名言を残していますが、
レオンハルトは、作品の音楽面だけを捉えず、
むしろ同時代の広範囲の文化・美術・建築・思想の動きの中で捉えることによって、
はじめてその作品を純粋に現代へと蘇らせることができるというストイックな哲学を貫いたのでした。
■チェンバロでゴルドベルク変奏曲の魅力を伝える名盤
レオンハルトが1965年に彼にとって2度目となるこのゴルトベルク変奏曲を録音した時点では、
グレン・グールドによる同曲の革命的な録音が市場に出てすでに10年近くが経っており、
この曲もそれなりのポピュラリティを獲得しており、ステレオでも、
チェンバロによる録音もヘルムート・ヴァルヒャ(エレクトローラ/EMI)、
ラルフ・カークパトリック(アルヒーフ)、シルヴィア・マーロウ(米デッカ)、
ジョージ・マルコム(オワゾリール)など複数が発売されていました。
しかしそれらはいずれもレオンハルトより上の世代のチェンバリストばかり。
その意味でも、アリアと30の変奏を貫く論理性、各変奏のテンポ配分、リピートの有無など、
あらゆる点が吟味されつくしたレオンハルト盤は、
この作品の受容に大きな一石を投じるインパクトがありました。
使用楽器は、J.D.ドゥルケン作のチェンバロ(1745年アントワープ)をモデルに
1962年にマルティン・スコヴロネクによって製作された新しい楽器で、
レオンハルトは1970年代前半までバッハ作品の録音の多くにこの楽器を使用しています。
■「彼のような音楽家には出会ったことがない」
不思議なことにこの重要な録音の録音場所やプロデューサー/エンジニアは不明で、
録音年も長い間「不詳」「1965年以前」とされていました。
今回の発売で、ようやく日本盤でオフィシャルに「プロデューサー:ヴォルフ・エリクソン」
「1965年4月28日-30日、ベンネブルック、改革派教会」と記載されることになります。
一足先に活動を開始したアルヒーフ・レーベルや後発のセオン・レーベルと比較すると、
テレフンケンのダス・アルテ・ヴェルク・レーベルはジャケット上への録音データに関する記載が少なく、
詳細を把握できない録音も多く、レオンハルトのゴルトベルク変奏曲もそうした1枚でした。
2022年に発売された「ニュー・グスタフ・レオンハルト・エディション」で、
プロデューサーは当時ダス・アルテ・ヴェルクの制作を一手に担っていた
ヴォルフ・エリクソン(1928-2019)であったことが明らかにされました。
オルガン製作を学び、1957年にテレフンケンに入社したエリクソンは、
戦禍を逃れて現存していたドイツ各地の教会の歴史的なオルガンを使って
カール・リヒターとバッハのオルガン作品の録音を担当し、
オリジナル楽器で演奏することの重要性に気付きました。
そしてエリクソンが中心となってテレフンケン内に古楽専門の
レーベル、ダス・アルテ・ヴェルクを立ち上げたのです。
エリクソンがレオンハルトに出会ったのは1961年、小編成のアンサンブルによる
バッハのチェンバロ協奏曲の録音セッションで、それ以来テレフンケン、
そして1969年にエリクソンが創設したセオン・レーベルや1989年にソニークラシカルの
古楽部門レーベルとしてやはりエリクソンによって創設されたヴィヴァルテ・レーベルに至るまで
長らく協同制作を続けることになりました。
レオンハルトについてエリクソンは「バロック音楽のエキスパートであり、
バッハの音楽のもっとも偉大な解釈者。オルガンやチェンバロを弾くのみならず、
アンサンブルのまとめ役としても卓越した才能を備えている。
彼のような音楽家には出会ったことがないし、
常にあれほどの高い水準を維持し、成功を収めているアーティストは知らない」とコメントしています。
■「青白い閃光に包まれた広大な空間を、音が唸りを生じて飛び交っている」
エリクソンによると、
レオンハルトは録音の際、演奏のコンセプトを細かく打ち合わせするのが常でした。
それによってエリクソンとエンジニアは、
作品の中で重要と思われるパッセージがきちんと収録できるようなマイクの配置や角度を精密に調整し、
その作品のイメージが正確に伝えられる収録を目指したのでした。
このゴルトベルク変奏曲もそうした配慮がなされた上で収録されたと思われ、
レオンハルトが構想した作品のイメージをストレートに伝えています。
録音場所はアムステルダムから南西に車で40分ほど離れた
ベンネブルックという町にあるオランダ改革派教会で、
1664年から建設が始まり、1682年に完成、1972年以来、国の記念碑として保護されています。
ここは1960年代にレオンハルトのテレフンケン録音の多くが行われた場所でもありました。
そしてこの演奏は、発売から20年ほど経ってから、
オーディオ評論家として人気を博した長岡鉄男(1926-2000)が
『長岡鉄男の外盤A級セレクション』(1985年刊行の2)で絶賛したことで、
そのサウンドの迫力がオーディオファイルにも広く知られるようになりました。
長岡はこの録音の特徴をレオンハルトのドイツ・ハルモニア・ムンディへの同曲再録音盤と比較して
「マニア向きといったら断然この盤だ。限りなく細く硬く透明な弦を天性の羽根でかき鳴らすといった、
独特の鋭さと切れ込みとプラチナの輝きを持つ。クールな超微粒子サウンド。
余韻とホールエコーが豊かに渦巻いて、どちらかといえば細身のサウンドなのだが、
音場的には全くやせたところがなく、三次元的に広大で厚い。青白い閃光に包まれた広大な空間を、
音が唸りを生じて飛び交っているといった趣もある。」と長岡流の表現で形容し、
さらにレオンハルトの演奏についても「演奏も負けず劣らずで力強く、鋭く、スピード感があり、
しかも情感たっぷり」と、絶賛しています。CD初期の1987年に発売されたテルデック盤
(ダス・アルテ・ヴェルクのレファレンス・シリーズ8.43632)が最初のCDで、
それ以来定期的に再発売されていますが新規リマスターは敢えて行われず、
今回が初めてのリマスターとなります。
今回のSuper Audio CDハイブリッド化に当たっては、これまで同様、
使用するマスターの選定から、最終的なDSDマスタリングの行程に至るまで、
妥協を排した作業をおこないました。
特にDSDマスタリングにあたっては、「Esoteric Mastering」を使用。
入念に調整されたESOTERICの最高級機材Master Sound Discrete DACと
Master Sound Discrete Clockを投入。またMEXCELケーブルを惜しげもなく使用することで、
オリジナル・マスターの持つ情報を伸びやかなサウンドでディスク化することができました。
■「精密さと雄大さを併せ持つ演奏」
「レオンハルトは堅実な弾き方で、変奏の細かいところまでが入念に演奏されている。
それでいて、曲の全体の鳥瞰が巧みに行われているので、
30 の変奏を大きな構図に収めたバッハの規模を、はっきりと汲み取ることができる。
この曲の研究のための音の材料、もしくは演奏の参考資料という実際的な効用も大きいので、
精密さと雄大さを併せ持つこの演奏は価値が大きい。」
『レコード芸術』1967年9月号、推薦盤
「限りなく細く硬く透明な弦を天使の羽根でかき鳴らすといった、
独特の鋭さと切れ込みとプラチナの輝きを持つ、クールな超微粒子サウンドなのだが、
音場的にはまったくやせたところがなく、3次元的で広大に厚い。
青白い閃光に包まれた広大な空間を、音が唸りを生じて飛び交っているといった趣もある。
演奏も負けず劣らずで、力強く、鋭く、スピード感があり、しかも情感たっぷり、
すべての面で抑えたところの少い(ママ)演奏と録音である。睡眠薬代わりにはなりそうもない。」
『外盤A級セレクション』長岡鉄男、1985年
■収録曲
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)
1-32. ゴルトベルク変奏曲 BWV988
(クラヴィーア練習曲第4巻 アリアと30の種々の変奏)
グスタフ・レオンハルト
(チェンバロ /J.D.ドゥルケンのモデル[1745年アントワープ]による
マルティン・スコヴロネク製[1962年ブレーメン])
[録音]1965年4月28日-30日、オランダ、Hervormde Kerk、Bennebroek
[初出]Telefunken SAWT 9474-A(1965年)
[日本盤初出]Telefunken SR1054(1967年8月)
[オリジナル・レコーディング]
[レコーデイング・プロデューサー]ヴォルフ・エリクソン
[Super Audio CDリマスタリング]
[Super Audio CDリマスター]2023年11月 エソテリック・オーディオルーム、「Esoteric Mastering」システム
[Super Audio CDプロデューサー]大間知基彰(エソテリック株式会社)
[Super Audio CDアソシエイト・プロデューサー]吉田穣(エソテリック株式会社)
[Super Audio CDリマスタリング・エンジニア]東野真哉(エソテリック株式会社)
[解説]浅里公三、矢澤孝樹
[企画・販売]エソテリック株式会社
[企画・協力] 東京電化株式会社