■ピリスの原点であるショパン
ポルトガル出身の女流ピアニスト、マリオ・ジョアン・ピリス 1944 年リスボン生まれ)が
世界的な注目を浴びたのは 1970 年のベートーヴェン国際コンクール優勝がきっかけでした。
そ してレコーディング・アーティストとしてのピリスの名を大きくア ピールしたのは 1974 年初頭に
約 1 か月半をかけて東京イイノ・ ホールで録音されたモーツァルトのピアノ・ソナタ全集という大作。
日本コロムビアから発売されたこの 8 枚組の全集は、ヨーロッパではフランスのエラート・レーベルで発売され
ADF ディ スク大賞、エディソン賞など重要なレコード賞を受賞し、
まだ 30歳になったばかりの「新しい世代のモーツァルト弾き」としての ピリスの姿を鮮烈に印象付けたのでした。
しかしピリスにとって 最初のソロ・アルバムは
それより 3年前の 1971年 9月に東京・ 世田谷区民会館で収録された
オール・ショパン・ プログラムだったのです(東芝EMI・未CD化) 。
バラード第 1 番と幻想ポロ ネーズという人気大作を軸に、ワルツを 3曲、練習曲と夜想曲を 1 曲ずつ配した構成は
1 枚のアンソロジーとして見事で、清冽な演奏は発売当時大きな注目を浴びました。
このアルバムの選曲もピリスが後に辿る足跡を暗示しているかのようで、
バラードと練習曲以外はのちに再録音しています 。
■ピリスの絶品レパートリー、ショパン
小柄で手も小さいピリスがモーツァルトを得意としたのは自明の理ですが、
演奏レパートリーもモーツァルトを中心として、ベートーヴェン、シューベルト、
シューマンあたりのロマン派までがその大半を占めています。
大きな音や派手な表現で大向こうを張るタイプとは真逆のピアニストであるがゆえに、
ショパン作品でもスケルツォや バラードのような作品よりも、ワルツや夜想曲のようなインティメートな音楽において、
その真価を より明確な形で発揮できるのもごく自然なこと。
その意味で、 1990年代のドイツ・グラモフォンとの録音契約の中で、ショパンの夜想曲全集の録音が
ようやく実現したのはじつに幸運なことで、ピリス・ファンにとっても、いやクラシック音楽の愛好家にとって、
待ちに待ったリリースとなったのでした。
■ショパンが生涯にわたって取り組んだ夜想曲の理想的な演奏
ショパンの夜想曲は、彼が 20歳の時から晩年に至るまで生涯にわたって創作し続けたジャンル。
「夜想曲(ノクターン)」ラテン語で夜 をさす「ノクス( n ox )」から派生した名称で、
ピアノ独奏曲としての夜想曲というジャンルは、アイルランドの作曲家ジョン・フィールドが創始しました。
ショパンはワルシャワ時代にすでにフィールドの作品に 接して共感を覚え、
ベルカント唱法をピアノ音楽で表現することに 長じ、サロン向けの音楽を作る必要のあったショパンにとっては、
打 ってつけの楽曲形式でした。ショパンの夜想曲は、美しさ、弾きやすさに加えて、
芸術的な深みを持ち合わせた作品として、現在でも 不動の人気をもっています。
ショパ ンの夜想曲は、作品ごとに彼自 身の作風の変遷を辿ることもでき、
フィールドの影響が色濃く残されている初期の作品から出発し、時を経るにつれて作曲技法が深化し、
ショパン独特の境地へと発展していく様子が刻み込まれています。
ほとんどがシンプルな三部形式で、ゆっくりとしたテンポを基調に、美しいカンティレーナが歌われていきますが、
孤独感、懐かしさ、哀しみなど、極めて豊かな感情の起伏が音 化されていて、
そうした要素をどこまで汲み取れるかがピアニストにとっての試金石。また後期の作品になればなるほど、
情緒が濃厚になり、そこで表現さ れている感情世界も広く深くなっていくのも大きな特徴です。
5 0 歳を越 えたピリスは、夜想曲のそれぞれに個性的な風貌を、粒ぞろいの美音と、
過度にならない自然なニュアンス付け、
豊かでふくよかな充実した響きで彩っていきます。
過度に感情的な身振りを持ち込まず、むしろストイックなまでに 緻密なコントロールを聴かせつつも、
決して堅苦しくない雰囲気を持つ演奏は、音楽や作曲家に対して
常に真摯 な姿勢で臨んできたピリスの人柄を反映しているかのようです。
結果として日本での 1996 年度「レコード・アカデミ ー賞」をはじめ、
世界各地でさまざまな賞を受賞するなど、極めて高く評価されています 。
■最高の状態での Super Audio CD ハイブリッド化が実現
録音はミュンヘンの音楽大学の講堂とロンドンのヘンリー・ウッド・ホー ルの2か所で収録されました。
前者はドイ ツ・グラモフォンが 1 960 年代からカール・リヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団の録音で
頻繁に使ってきた収容人数 600人の小ぶりのコンサートホール。
後者は 1 9 世紀に建てられた教会で、 1975年にオーケストラのリハーサル や録音用に改装され、
イギリスの名指揮者ヘンリー・ウッドの名を冠して生 まれ変わったホールで、
ロンドンではウ ォルサムストウ・タウン・ホールと並ぶ録音の名所として知られています。
1980 年代以降のドイツ・グラモフォンのメ イン・エンジニア/プロデューサーの一人、
ヘルムート・バークによる音作りは、2つの録音会場の差異を全く感じさせず、
ピリスをごく親密な空間で聴いているか のようなイメージを与えてくれるもので、
過去に 当シリーズで発売した モーツァルト:ピアノ・ソナ タ集( ESSG 90189 や
シューベルト:即興曲集 ESSG 90196 よりも深めの残響で収録されているのも、
作品と演奏の本質に相応しい見事な エンジアリングといえるでしょう。
もともとが優秀 なデジタル録音であり発売以来特にリマスター が施されたことはなかったため、
今回は初めての DSD リマスタリングとなります。
今回の Super Audio CD ハイブリッド化に当たっては、 これまで 同様、使用するマスターの選定から、
最終的な DSD マスタリングの行程に至るまで、妥協を排した作業 をおこないました。
特に DSD マスタリングにあたっては、 新たに構築した「 Esoteric Mas tering 」を使用。
入念に調整された ESOTERIC の最高級機材 Master Sound Discrete DAC と Master Sound Discrete Cloc k を投入。
また MEXCEL ケーブルを惜しげもなく使用することで、 オリジナル・ マスターの持つ情報を
伸びやかなサウンドで ディスク化することができました。
■「すべてのノクターンが、 1曲の例外もなく、それぞれの『いのち』を息づいている!」
「夜想曲はショパンの作品の中でも演奏するのが特に至難の業である。
曲の表面に流されて、ともすれば、過剰にセンチメンタルになったり、曲の内部まで掘り下げずに終わってしまうからだ。
その点、このピリスの演奏は極め て完成度が高い。ショパンはもともとピリスの得意とするレパートリーだが、
このアルバムでは特に円熟味を増した 彼女の良さが生きている。ピリスは自然体でありながら、
情感豊かに、さまざまな形式で書かれた 1 曲 1 曲 の特質 を的確にとらえ、
多彩な内容を格調高く描き出している。その知的な読みの深さはさすがである。」
『 ONTOMO MOOK クラシック名盤大全 器楽曲編』、 1998 年)
「ピリスが当代一流のモーツァルト弾 きであるのみか、ある意味で比類ないほどのショパン弾きでもある事実を、
如実に示したのがこの夜想曲の録音だった。ノクターンは決して、
ショパンが細やかな詩情のみを注ぎ込んだ音楽ではない。
個々の曲の裡に、ショパンはその情熱、意志の力、劇的な昂揚感の全てをも託したのである。
このこと を深く感じ取り、すべてをふさわしく表現できるピアニストを、あるいはショパンは待ち望んでいたのかもしれない。
そして、ここに、このポルトガル女性が現れた、とまで、聴きながら筆者は思ったものである。
すべてのノクターンが、 1 曲の例外もなく、それぞれ の「いのち」を息づいている!」
(『クラシック不滅の名盤 1000 』、 2007 年)
「ピリスほど、奏でる音の一音一音に意味と心が宿り、聴く者の心に染み込む音楽を奏でたピアニストはいない。
彼女はその美しいピアニズムによってショパンからも独自の美を引き出した。この夜想曲集は、
ショパンの作品の中でも最も磨き抜かれた音色や響きの美しさが要求される作品だけに、
まさにピリスの美点が最も生きる作品。そ の意味で彼女のショパン解釈の代表的なものが聴けるといってもよい。
聴いている間、夢見心地のような至福を味 わわせ てくれる傑作である。」
(『最新版・クラシック不滅の名盤』、 2018 年)
■収録曲
フレデリック・ショパン Fr é d é ric Chopin
夜想曲集 Nocturnes
1. 第 1 番 変ロ短調 作品 9 の 1 No. 1 in B flat minor, Op. 9 No. 1: Larghetto
2. 第 2 番 変ホ長調 作品 9 の 2 No. 2 in E flat major, Op. 9 No. 2: Andante
3. 第 3 番 ロ長調 作品 9 の 3 No. 3 in B major, Op. 9 No. 3: Allegretto
4. 第 4 番 ヘ長調 作品 15 の 1 No. 4 in F major, Op. 15 No. 1: Andante cantabile
5. 第 5 番 嬰ヘ長調 作品 15 の 2 No. 5 in F sharp major, Op. 15 No. 2: Larghetto
6. 第 8 番 変ニ長調 作品 27 の 2 No. 8 in D flat major, Op. 27 No. 2: Lento sostenuto
7. 第 9 番 ロ長調 作品 32 の 1 No. 9 in B major, Op. 32 No. 1: Andante sostenuto
8. 第 12 番 ト長調 作品 37 の 2 No. 12 in G major, Op. 37 No. 2: Andantino
9. 第 13 番 ハ短調 作品 48 の 1 No. 13 in C minor, Op. 48 No. 1: Lento
10. 第 14 番 嬰へ短調 作品 48 の 2 No. 14 in F sharp minor, Op. 48 No. 2: Andantino
11. 第 15 番 ヘ短調 作品 55 の 1 No. 15 in F minor, O p. 55 No. 1: Andante
12. 第 16 番 変ホ長調 作品 55 の 2 No. 16 in E flat major, Op. 55 No. 2: Lento sostenuto
13. 第 19 番 ホ短調 作品 72 の 1 No. 19 in E minor, Op. 72 No. 1: Andante
14. 第 20 番 嬰ハ短調 遺作 No. 20 in C sharp minor, Op. posth.: Lento con gran espressione
15. 第 21 番 ハ短調(遺作) No. 21 in C min or, Op. posth.
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ) Maria Jo ã o Pires, Piano
[録音] 1995 年 1 月 2 日〜 5 日(第 1 5 番、第 8 ・ 9 番)、
1996 年 1 月 2 日〜4日(第 1 2 1 4 番、第 1 9 番)、
1996 年 4月 7日〜 9日、ミュンヘン、音楽大学大ホール、
1996 年 6 月 20日・ 21日、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ ホール(第 2 0 ・ 2 1 番)
[初出] 447 096 2 1996 年)
[日本盤初出] POCG11986 7(1996 年 10月
[オリジナル・レコーディング]
[エクゼクティヴ・プロデューサー] クリストファー・オールダー
[レコーディング・プロデューサー] ヘルムート・バーク
[レコーディング・エンジニア] ヴォルフ ディーター・カルヴァトキー、ラインヒルト・シュミット
[エディティング] ヨープスト・エーベルハルト、ラインハルト・ラーゲマン
[ Super Audio CD プロデューサー] 大間知基彰( エソテリック株式会社
[ Super Audio CD リマスタリング・エンジニア] 東野真哉(エソテリック株式会社)
[ テクニカルマネージャー 加藤徹也 (エソテリック株式会社
[解説] 諸石幸生 寺西基之
[企画・販売] エソテリック株式会社
[企画・協力] 東京電化株式会社