■20世紀後半〜21世紀の指揮界を牽引したオランダの静かな巨匠
2019年9月、ウィーン・フィルとのルツェルン音楽祭における
ブルックナー交響曲第7番の演奏を最後に90歳で指揮活動から引退した
ベルナルト・ハイティンク(1929年アムステルダム生まれ)。
ヴァイオリニストとしてスタートし、フェルディナント・ライトナーに指揮を師事後、
1955年にオランダ放送フィルの次席指揮者、1957年より首席指揮者に就任して
指揮者としてのキャリアをスタートさせたハイティンクが国際的な注目を大きく浴びたのは、
1961年、わずか32歳で名門アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に任じられた時のこと。
就任当初こそ補佐役としてヨッフムが支えたものの、
ハイティンクは1988年まで28年間にわたって同団と活動し、
オランダを代表する存在から世界有数のアンサンブルへと育て上げました。
ロンドン・フィル(1967〜1979)、英国ロイヤル・オペラ(1987〜2002)、
ボストン響、シュターツカペレ・ドレスデン、シカゴ響など、
世界的なオーケストラやオペラのポストを歴任し、
20世紀後半から文字通り指揮界を牽引した活動を60年以上にわたって続けた名指揮者でした。
■ハイドンから武満徹までを網羅した膨大な ディスコグラフィ
ハイティンクで特徴的なのは、指揮活動と並行して行われた広範な録音活動でしょう。
1959年、コンセルトヘボウ管就任前に同団と録音したベートーヴェンの交響曲第8番と
メンデルスゾーンの交響曲第4番以降、第2次大戦後のオランダの新興レーベル、
フィリップスにハイドンから武満徹に至る膨大なディスコグラフィを築き上げました。
オランダ随一の楽団の録音をオランダ随一のレーベルが後押しするのは自然なことで、
折しもステレオという新しい技術による新しいカタログが渇望される状況の中で、
若いハイティンクは名門楽団と次々にスタンダード・レパートリーの録音を発表し、
その名を世界的に知られるようになりました。
また1967年から首席指揮者に就任したロンドン・フィルとはリストの交響詩全集や
ベートーヴェンの交響曲・協奏曲全曲など、
コンセルトヘボウ管とは別の録音プロジェクトが推進されていきます。
■突如デッカで開始されたショスタコーヴィチ・チクルス
ほぼ20年にわたってフィリップスだけに録音を続けてきたハイティンクですが、
転機はデジタル時代を目の前にした1970年代後半に起こります。
1977年の交響曲第10番を皮切りに、イギリスのデッカ・レーベルに開始された
ショスタコーヴィチの交響曲全曲録音がそれです。
1984年まで8年がかりで15曲の交響曲と若干の管弦楽曲・歌曲を、
ハイティンクがポストを持っていたコンセルトヘボウ管とロンドン・フィルという2つの楽団を起用して
録音したこのプロジェクトは、1979年10月にイギリスで出版されたソロモン・ヴォルコフの
『ショスタコーヴィチの証言』によるショスタコーヴィチへの関心の増大と作曲家像や
作品解釈の転換と軌を一にするかのように進められました。
それまでショスタコーヴィチの交響曲全集といえばキリル・コンドラシン モスクワ・フィルによる
メロディア録音かコンドラシンのほかに複数のロシア人指揮者の録音
(メロディアからのライセンスでEMI・オイロディスクで発売)を集めたロシア産のものしかなく、
バーンスタインやオーマンディなどショスタコーヴィチの交響曲を複数録音している指揮者もいたものの、
「西側」の指揮者とオーケストラによる全集録音は画期的なプロジェクトでした。
■ショスタコーヴィチの作品の位置づけを見直すきっかけとなったプロジェクト
基本的にはロシアの楽団の独特の音色による強面の録音を通じてしか
ショスタコーヴィチの交響曲の全体像を聴けなかった状況の中で、
ハイティンクの録音は、ショスタコーヴィチの優れた
オーケストレーションの独自の魅力を初めてバイアスなく提示し、
ロシアの演奏伝統の中でのショスタコーヴィチのイメージから切り離したことで、
この作曲家の演奏解釈を転換させる起爆剤となったのでした。
コンセルトヘボウ管やロンドン・フィルという機能性の高い楽団の起用も効果的で、
ショスタコーヴィチの個性的な音楽語法の特徴を、
デッカの鮮明な録音によって非常に明確に聴きとることができるようになったのです。
作品解釈の上でも、例えば交響曲第5番終楽章の落ち着いたテンポは、
楽譜の指示に従っておらず、むしろヴォルコフの『証言』の「(第5番は)強制された歓喜なのだ」という
記述とテンポ変更の指示に呼応するかのようで、
作品の表層からは聴きとることができない作曲者の内面を体現させた演奏解釈として高い評価を得たのでした。
道化的な側面が強調されすぎることもある第9番でも、技術的に正確な演奏を貫くことで、
逆に作品の個性がクローズアップされています。
■オリジナル・マスターから最高の状態でのSuper Audio CDハイブリッド化
この全集のレコーディングは
ちょうどアナログからデジタルへの転換期に行われましたが、
当盤収録の2曲はデジタル録音です。
コンセルトヘボウ管との第5番はアムステルダムのコンセルトヘボウ、
ロンドン・フィルとの第9番はロンドンのキングスウェイ・ホールと録音には最適の名ホールが使われており、
デッカならではの、オーケストラの各パートを鮮明かつ立体的に捉えた明晰透明なサウンドが、
ショスタコーヴィチのオーケストレーションの部類の面白さを伝えてくれます。
フィリップスへの録音がオーケストラ全体の重厚で落ち着いたソノリティを
表に押し出したヨーロッパ調の音作りだったのに対して、
デッカ録音はもっと切れ味の鋭い小回りの効いたサウンドに仕上がっており、
レーベル毎に音の個性がはっきりしていたアナログ時代の記憶が蘇るかのようです。
第9番でのトロンボーンやピッコロなど、重要な役割を果たすソロの際立たせ方、
第5番の第3楽章での悲劇的なトゥッティでも各パートが埋もれずに明確に捉えられている点など、
まるでショスタコーヴィチのオーケスレーションにレントゲンを当てたかのような音作りの面白さがあります。
デジタル録音ということもあって、CD最初期に発売されて以来、リマスターされるのは今回が初めてで、
世界初のSuper Audio CDハイブリッド化となります。
これまで同様、使用するマスターテープの選定から、
最終的なDSDマスタリングの行程に至るまで、
妥協を排した作業が行われています。
特にDSDマスタリングにあたっては、D/Aコンバーターとルビジウムクロックジェネレーターとに、
入念に調整されたESOTERICの最高級機材を投入、
またMEXCELケーブルを惜しげもなく使用することで、
オリジナル・マスターの 持つ情報を余すところなくディスク化することができました。
■『ショスタコーヴィチの人生と思想の遍歴が伝えられている』
「ヴォルコフ編の『証言』が発表されてから最初に西側で録音された交響曲第5番である。
ライナーノートにはあくまでも推測としながら、ハイティンクは問題の書を実際に読んだのだろう、としている。
これは、たぶん当たっている。オケのせいもあるが、ここでは〈勝利の歌〉はきこえない。
フィナーレのコーダは作曲者晩年の意思に従ってテンポ指示を変更しているし、音色は渋く金管も控えめ。
トゥッティも角が取れている。それだけに第3楽章の叙情性が際立っている。」
『レコード芸術別冊・クラシック・レコード・ブック VOL. 1 交響曲編』1985年
「ハイティンクの交響曲第9番はとりわけ鮮烈な印象を与える。
スターリンとの最後の確執を刻んだこの作品風刺精神を見事に浮き彫りにし、
ディテールまでも研ぎ澄ました表現で、潜在的であった悲痛な告白を、白日の下に顕在化させたのだ。」
『レコード芸術別冊・クラシック・レコード・ブック VOL. 1 交響曲編』1985年
「ここにはまぎれもないハイティンクの誠実を極めた姿勢と、純音楽的演奏様式が一貫してある。
スコアを真摯に見つめることで、作品の音楽的な意味を追求しながら曲の内面を掘り下げ、
密度の高い音楽と均 衡感の強い造型が表現されている。
作品に共通した悲劇的な感情や内部に隠された鋭いまなざしが、
虚飾や皮相感をともなわずに表出され、音質と美と思想を率直に聴き手に伝えてくれる。」
『レコード芸術別冊・クラシックCDカタログ ’89(前期)』1989年
「ヴォルコフの『証言』はそれまでのショスタコーヴィチのイメージを大きく覆した。
特に交響曲の解釈に革命的な変化が生じた。その第1歩を記したのがこのハイティンク盤だ。
思想に寄った解釈ではなく、音楽におのずと思想と語らせた点で、
その後の幾多の演奏とも一線を画していると思う。
その透明感と堅実さは他の演奏に聴けないものだ。
その透徹したハイティンクの解釈を通してショスタコーヴィチの人生と思想の遍歴が伝えらえている。」
『ONTOMO MOOK クラシック不滅の名盤800』1997年
■収録曲
ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)
交響曲 第5番 ニ短調 作品47
交響曲 第9番 変ホ長調 作品70
トラックリスト
ドミトリ・ショスタコーヴィチ
交響曲 第5番 ニ短調 作品47
第1楽章:モデラート
第2楽章:アレグレット
第3楽章:ラルゴ
第4楽章:アレグロ・ノン・トロッポ
交響曲 第9番 変ホ長調 作品70
第1楽章:アレグロ
第2楽章:モデラート
第3楽章:プレスト
第4楽章:ラルゴ
第5楽章:アレグレットーアレグロ
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団〔第5番〕
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団〔第9番〕
指揮:ベルナルト・ハイティンク
[録音]
交響曲 第5番:1981年5月21日〜23日、アムステルダム、コンセルトヘボウ、グローテ・ザ−ル
交響曲 第9番:1980年1月15日〜16日、ロンドン、キングスウェイ・ホール
[初出]
交響曲 第5番:SXDL 7551(LP)、410 017 2(CD)(いずれも1982年)
交響曲 第9番:SXDL 7515(LP 1981年)、414 677 2(CD/1985年)
[日本盤初出]
交響曲 第5番:L28C1408(LP 1983年2月25日)、410 017 2(CD輸入盤 1983年9月10日)
交響曲 第9番:L28C1002(LP 1981年10月21日)、F35L50273(CD輸入盤 1986年3月25日)
[オリジナル・アナログ・レコーディング]
[レコーディング・プロデューサー]アンドルー・コーナル
[バランス・エンジニア]
交響曲 第5番:コリン・ムアフット
交響曲 第9番:サイモン・イードン、コリン・ムアフット
[Super Audio CDプロデューサー]大間知基彰(エソテリック株式会社)
[Super Audio CDリマスタリング・エンジニア] 東野真哉(JVCマスタリングセンター(代官山スタジオ))
[Super Audio CDオーサリング]藤田厚夫(有限会社エフ)
[解説]諸石幸生、 増田良介
[企画・販売]エソテリック株式会社
[企画・協力]東京電化株式会社